【書評】田中豊「書評:李セボン『自由を求めた儒者ー中村正直の理想と現実ー』」

田中豊「書評:李セボン『自由を求めた儒者ー中村正直の理想と現実ー』(中央公論社・2020年)」

 儒者は一般に、「聖人の道」を普遍的なものであるという信念を持って疑わない。むろん、ここでいう「道」は論者や学派によって異にするが、この「道」について古典中国語(漢文)を駆使、追窮することによって体現することが儒者の役割の一つであるといえよう。しかし、儒学がいうように「道」が普遍的であるとするならば、その検討対象も漢字文化圏に限定する必要はなかろう。日本が西洋思想と本格的に邂逅することとなった幕末に、こうした新時代の儒学を志向した中村正直が、本書の主人公である。中村は、儒学を普遍的なものとして把握することによって、「天道」の体現としての西洋「文明」を日本へ紹介することに主眼を置いていた(18頁)。彼のこのような思想的営為を、昌平坂学問所御儒者時代を始点に、これまで重視されてこなかった儒学思想を軸にして議論がすすめられる。先行研究は、「啓蒙」家としての側面に重点を置き分析をおこなってきた。そこでは、儒学が中村の「啓蒙」にあたっての不完全性を露呈してきたと、儒学は西洋思想受容に際しての限界として捉えられてきた。しかし、本書はこのような理解を中村の著作に基づきつつ根本的に批判することを企図する。その作業の一環として、従来翻訳書として扱ってきた『西国立志編』と『自由之理』が、彼自身の「思想作品」として再評価される。スマイルズやミルをはじめとする近代西洋政治思想と邂逅したときに、儒者がとった態度とは如何なるものであったのか。本書は中村の思想の論理構造を抽出し分析することで、これを再現してみせた。

 本書は、序章と終章のほか、6章構成となっている。第1章「学問時代における「学者」論」では、中村の思想が洋学と儒学の「折衷」的な性格を帯びているという従来の理解に疑義を唱える。「伝統」と「啓蒙」の対立構図に基づく「折衷」的思想ではなく、儒学に基づく「体系的な論理」が描かれる。これによって、これまで顧みられることがなかった学問所儒者というアイデンティティに焦点があてられ、維新以前の中村の思想が重点的に取り上げられる。

 第2章「「敬天愛人」の思想」では、イギリス留学前夜から留学中を経て幕府瓦解にともなう急遽の帰国までを範囲とする。佐久間象山の影響を大きく受けていた中村は、「儒者もまた洋学を学習すべきだと一貫して主張していた」(57頁)。これは、彼自身がイギリス留学を希望するにあたり認めた「留学奉願候存寄書付」にても展開されており、そこで時代の変化により、「儒者分内」を中国に限定するのは古い観念であると述べる。つまり「「天地人」が一である以上、「儒者の名義」を「正」すには、「本邦」「支那」のみならず、「外国」の「政化風俗」と「語言学術」に通ずべきである。したがってこの度の自分自身の留学も「儒者分内」になり得る」と説く。留学先イギリスでの猛勉強、そして幕府瓦解による突然の帰国の後、中村はキリスト教理解への一つとして「敬天愛人説」を執筆する。彼においてもキリスト教の教理は「敬天愛人」として把握されているように、マテオ・リッチにはじまるGodを「天」に結び付ける発想が継承される。そして留学によって、「「富強」・「文明」が「敬天愛人」の教理によって支えられているという事実を確認し、そこからキリスト教との真摯な向き合いが始ま」る(74頁)。「敬天愛人説」の意義は、これまで被治者として描かれるに過ぎなかった「民」が「天と相対する位置にいる存在として人間の平等性を前提とした議論に変化した」ことである。つまり中村において、「民」や「臣」は身分を超えて「人」として観念される。このように、「天」の下での互いに平等な「民」における道徳が「敬天愛人説」での主題となる(86頁)。

 第3章「「上帝」の実在」では、『請質所聞』に登場する「罪福の説」を主に扱う。これを取り上げるのは、『西国立志編』や『自由之理』の翻訳の動機をそこから窺えるためである。『請質所聞』では、「天」という語の代わりに「上帝」が用いられる。中村によると「上帝」とは「無質無形かつ無限であり、全知全能かつ遍在する」と定義され、「天」と同義、「神」あるいは「造化の主宰」とも言い換え得る概念である(92頁)。著者は、これに対して朱熹が『中庸章句』でいうところの「独り慎」しむ態度に相通じることを示す。そして「上帝有るを知」る能力(「道理の眼」)をいかにして得るのかを、中村は『請質所聞』で問題にする。このように朱子学に重きを置きつつも、一方でここでの「上帝」は「天即理」のような朱子学に由来するものではなく、外在的、超越的、人格神的な性格をもつというキリスト教的「天」であった。ただし著者はこれを単にキリスト教的「天」とするのではなく、朱子学以前、とりわけ『詩経』や『書経』にみられる「天」の特徴と共通することを指摘する。要するに『請質所聞』は、「禍福之説」や「罪福之説」を持ち出すことで、人々に「上帝有るを知」らしめることに主眼が置かれていること、またキリスト教をはじめとする西洋哲学、仏教、「野蛮の民」の偶像崇拝という慣習までを参考にした、「新しい思想プロジェクト」の始動をも意味した。

 第4章「「品行」と「一新」」では、前章までに扱った「敬天愛人説」や『請質所聞』の延長線上に『西国立志編』の序跋論を置き、これが中村の「思想的な声明書」であることが明らかにされる。一国の文明とは、その構成員たる人民が「品行」を「正」しくし、「職業ヲ勉メ芸事ヲ修メ善ク」することに大きく依存する。かくして原書『自助論』の著者スマイルズの「文明」論は、「自己の内面の修養が「人間万事」に連なり、国の治平を保障するという点で朱子学の八条目」に一致する(135頁)ものとして把握される。また「品行」の向上については、朱子学の人格的な完成、即ち「君子」と同格なものとみなしていたように、儒学的修養論と『自助論』は根本的に通じると考えている。これには、「御一新」とは「政体」の変化でしかなく、「民」の「一新」には及んでいなかったという中村の明治維新観が潜んでいる。ここにおいて、『西国立志編』では「民」と「君」との協調を重視するように、彼は伝統的な儒学的統治論と距離をとるに至る。言い換えると君主は「御者」として「車に乗る者」、即ち人民の「意」に従って国政を運営せねばならない。以上では、『西国立志編』の四つの序文と第一篇の「序」が考察対象とされ、中村の儒学思想は『自助論』の内容と共通することが明らかにされる。ただし残る一つの序文(第九編「職事ヲ務ムル人ヲ論ズ」)は、本文の内容とは無関係に、「新見異説」の重要性が全面的に論じられる。このように当該序論が、他のそれとの趣が異なるのは『西国立志編』の直後に執筆される『自由之理』に通じる論点であり、これへの読解にあったと著者は考える。

 第5章「「天」と「自由」」で『自由之理』が扱われる。これは、「自主」的な人民によって形成された共同体における原理の探求が主題とされる。言い換えると、相い異なる人間同士からいかにして調和ある多様性を確保するかという問題を、「自由」の獲得という観点から考察される。それはまた、儒学の教えに基づく「異」の受容というテーマに通じる議論でもある。つまり著者は、これまで翻訳書としてみなされてきた『自由之理』を「思想作品」として再評価する。これに際し、societyに対する「仲間連中、即チ政府」という訳語によって、原書におけるsociety対individualという構図が「政府」対「人民」に置き換えられてきたことを問題として取り上げる。その理由は、中村とミルとの間における人間の本性という次元において認識の差異、即ち両者における道徳観の違いに求められる。ミルの場合、先験的に神から道徳的能力は賦与されず、「効用」が人間における倫理的問題の最終的な基準であると考える。一方中村の場合、「道理」こそが普遍的な基準であると『自由之理』では説かれるように、ミルの観念とは根本的に異なる。これにより『自由之理』ではミルとは異なり、人間本性によって他人の「自由」が抑圧される余地は想定されていないのである。これを踏まえるならば、『自由之理』とは「自主的な個々人が守るべき規範、共同体の運営原理」、即ち「人倫交際上」守るべき「理」(「自由」)という問題を扱うのである。以上のように中村が、ミルの『自由論』から学んだことは、自らの選択に対して責任を持つ「自主」という面のみならず、それと表裏の関係をなす「異」の尊重ということであった。

 第6章「「天」と「教」」では、「教法」としてのキリスト教と漢学との関係を中村がどのように考えていたのかが検討される。彼はこの「教法」を現代でいうところの宗教として捉えたうえでキリスト教の意味として用いる。そしてこれの下敷きとされていたのは、近世において基本的な経書『中庸』の「天の命ずる、之れを性と謂ふ。性に率ふ、之れを道と謂ふ。道を修むる、之れを教と謂ふ」であった。つまり彼における「教法」たるキリスト教は、儒学的文脈における「教」の意味をも色濃く帯びる。このとき「民」は、「天」を知る(信仰する)ことで「真理」を獲得し、はじめて「安楽」することが可能となる。これが意味するのは、「キリスト教における神への信仰と「天」の実在を信じ「道を修」める儒者の態度とを、「敬天愛人」という表現で一致させた」(224頁)ということである。しかし「欧米の書」より「道」を見出せるならば、今度は逆に漢学の存在意義が改めて問い直される。中村によると、古今東西の道徳の一致は次の二点から窺い知れる。第一に「自治」が「道徳」の「中点」であり、「自由」がそれを支える基盤となっていること。第二に中国でも西欧でも「道徳」は「性善の説」に基づくということである。要するに彼の「孔子の道」は古今東西普遍的であり、漢学も「教法」ともに「天」の実在を「民」に知らしめるための手段なのである。したがって、彼は特定の「教法」を絶対化しない。「天道」に至る多様な「教法」から自らの意志で最適なものを選択する「自由」を人々に与えるのであり、最終的に「真理」へ到達するという意味でそれは善である。

 従来、専ら「啓蒙」家としての側面に焦点があてられてきた中村が、西洋思想を受容するにあたっても儒学者としての態度を一貫して崩さなかったことを本書は明らかにする。彼の著作に対する精緻な読解と詳細な解説により、西洋思想より儒学思想を見出そうとする儒者中村像が提供される。啓蒙家ではなく儒学者というこれまでとは異なる視座より、明治以降の中村理解を根本的に刷新する本書は、今後の中村正直研究においては必読となるであろう。

 しかし、このような研究に対して全く疑問なしとはしない。第一は中村にとって非常に重要であった「天」という語である。彼は「上帝」「天」をGodの意味として用いていた。むろん、彼がこのように捉えていたという本書の主張には同意するけれども、Godと漢語「天」の結びつきは、思想史上大きな問題を孕むテーマの一つであることに注意を払わなければならない。「天」とGodの関係についてはもう少し踏み込んで議論をするべきであるにも拘わらず、本書ではこの点物足りないように感じる。つまり、中村がこのように理解することによって及ぼした思想史的な意義について取り上げられてもよかった。こうした理解は、太平天国の乱の首謀者、洪秀全におけるGodを「上帝」とする態度に通じる。ただし洪秀全が用いる「上帝」は、伝統的な上帝とは異なる。それは、「唯一至高な存在であって、他の一切の神、仏などを邪神、偶像として排斥する」の謂いであった。しかし、伝統中国における上帝は、唯一の至高者として崇拝されてきた史実はない」のである(柳父章『「ゴッド」は神か上帝か』、岩波現代文庫、2001年、231頁)。翻って中村が、Godとは「天」「上帝」「神」(「真一の神」)、「造化の主宰」のことであり、名は異なるが意味は同じであると喝破したとき、そこに「翻訳のズレ」は必ず生じる。科挙の熱心な受験生であった洪秀全は、このようなGodと「上帝」との違いに気づいていた。「天」「上帝」が、キリスト教を念頭に置かれていたものとして捉えられていた点は、中村の多くの論説から明らかにされるとはいえ、儒者中村においてもGodと「天」・「上帝」との違いは認識されていなかったのであろうか。確かに著者は、「中村の言う「天」・「上帝」を直ちにキリスト教のGodの概念に当てはめ、キリスト教論として把握することはできない」(123頁)との留保を付す。とはいえ、このような「天」・「上帝」がキリスト教論とどのように異なり、中村はそれを無視或いは無批判にこれを結びつけたことの意義についての検討も必要であったと思われる。

 これにあわせて、中村が「天」との関係で依拠していた学派の問題についても考える。彼は「天」を「朱子学の大前提たる「天即理」の論理」を否定し「人間より上位の存在・超越者」として規定していた(82-83頁)。しかしこのような宋明理学以前的でありかつキリスト教的「天」に由来する「道」に基づく修養を中村が求めたことに対して、著者は翻って朱子学の八条目との近似性を認める。一方で宋明理学とは異なる「天」にキリスト教との類似性を指摘しておきながら、他方でそのような「天」との関係性に置かれる「人」に朱子学的規範を要求していたという中村による解釈をどのように対処するのかという問題は依然として残る。これを要するに、「天」の彼岸性と此岸性という問題を中村がどのように対応していたのかということである。これについて著者は、朱子学内部の議論からも生じるとして、朝鮮朱子学によって例証を試みる。つまり、李退渓による「畏敬」の対象としての「天」の位置付け、さらには「理」と「上帝」との代替可能性を提示した丁茶山の議論が援用される。しかし、朝鮮朱子学とは「厳格」な朱子学であるとする本書での定義は一面において妥当であるが、他面においては両者において差異もある。朝鮮朱子学は、中国朱子学に対する朱熹の解釈を徹底するような「厳格」的な姿勢で以て臨んでいるという著者の主張は間違いない。ただし、「天」に人格神的かつ超越的価値を認めることや、そうした「天」との関係によって「民」が主体的修養をする点などは、中国朱子学にはみられない朝鮮朱子学ならではの特徴である(韓亨祚(著)、片岡龍(監修)、朴福美(訳)『朝鮮儒学の巨匠たち』、春風社、2016年、323-324頁)。むしろ、中村による「天」と「人」との関係性は、著者が念頭にいれている中国朱子学よりも朝鮮朱子学の論法に近いのではなかろうか。とはいえ彼が李退渓や丁茶山をはじめとする朝鮮儒学者の著作をどれほど目に通していたのか、それとも触れていなかったのかは判然としないため、断定的なことはいえない。ただし一口に朱子学における「天」といえども、日中朝での儒者のこれに対する態度はそれぞれ異なる。ゆえに、この点に着目することによって中村にとっての「儒者」の本質もより一層明解になるのではなかろうか。

 第二に、儒者中村という面に特化し過ぎるがために、他者との比較という観点が不足していた。例えば『自由之理』と他の訳書との比較という作業があれば、より説得的に同書のオリジナリティを示すことができたのではないであろうか。つまり『自由之理』を「思想作品」として積極的に評価するならば、同書で以て自己完結するのではなく他の翻訳書との比較も必要であったと思われる。その際には中国におけるOn Libertyの厳復による翻訳『羣己權界論』を挙げざるを得ない(なお、平川祐弘『天ハ自ラ助クルモノヲ助ク 中村正直と『西国立志編』』、名古屋大学出版会、2006年では『西国立志編』のイタリアでの受容について、また厳復訳と中村訳との比較が行われている)。『羣己權界論』という題からも窺えるように、厳復は「羣」と「己」という関係でsocietyとindividualを捉える。また厳復は儒教に不服であったとはいえ、やはり時の知識人と同様に古典からの引用がしばしばみられる(『羣己權界論』には『大学』や周濂渓『通書』といった儒学のみならず、仏典からの引用もみられる)。確かに『羣己權界論』と『自由之理』との比較研究は既になされている。しかし『自由之理』が「思想作品」であることを示す本書の独創的な企図は、厳復訳との比較に伴い、先行研究に対する再考、『自由之理』それ自体へのさらなる理解に迫る意欲的な作業になることが期待される。

 本書は、中村の著作を精緻に検討することにより、新たな像を見出した。西洋思想の枠組みで「啓蒙」を説いた西洋哲学者ではなく、徳川日本の儒学史の系譜に位置付けられる儒者中村の姿がそこにはみられた。これを達成するにあたり、本書は数多の国内の研究のみならず漢文文献、英文さらにはハングル文献を参照しているように各国の研究動向が踏まえられている。こうした丁寧な方法に基づく中村の思想の読解によって、西洋思想理解にあたり「負の側面として扱われがちであった」儒学の立ち位置についての批判的再考は成功している。幕末から近代初頭における西洋思想受容に際して儒学者がどのような役割を果たしたのかについては、本書を嚆矢として今後の近代日本思想史研究の重大な論点になるであろう。

(関西学院大学大学院法学研究科博士課程後期課程)

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