【人間草木:翻訳】「汪曾祺語録」閻秋君 編訳

汪曾祺語録

翻訳:閻秋君

人間草木
「六枚の花びら」(写真出典:www.nipic.com)

① 凡花大都是五瓣,栀子花却是六瓣。山歌云:“栀子花开六瓣头。”栀子花粗粗大大,色白,近蒂处微绿,极香,香气简直有点叫人受不了,我的家乡人说是:“碰鼻子香”。栀子花粗粗大大,又香得掸都掸不开,于是为文雅人不取,以为品格不高。栀子花说:“去你妈的,我就是要这样香,香得痛痛快快,你们他妈的管得着吗!”

 殆どの花は五枚の花びらですが、クチナシの花は六枚です。民謡では、「クチナシの花には六枚の花びら」と歌っています。クチナシの花は厚くて大きく、色は白く、花萼の近くは薄い緑です。香りは強くて、耐えられないほどです。私の故郷では、それを「鼻を打つ香り」と言います。クチナシの花は厚くて大きく、匂いも離れないので、上品な文人たちはそれを品格のない花とみなして受け入れません。クチナシの花はこう言いました。「勝手にしやがれ!私はこの香りがいいのです。思う存分香りたいのです。あなたたちほっといてくれ!」

(「夏天」、執筆:1994年)

「ブドウ棚の来客」
(撮影:閻秋君、遠野にて、2019.8)

② 有人说葡萄不开花,哪能呢!只是葡萄花很小,颜色淡黄微绿,不钻进葡萄架是看不出的。而且它开花期很短。很快,就结出了绿豆大的葡萄粒。

 ブドウには花が咲かないという人がいますが、どうしてそう言えるのでしょうか。ただ、ブドウの花はとても小さく、薄い萌黄で、ブドウ棚に入り込んで見ないと分かりません。そして、ブドウの花が咲いている期間はとても短いのです。開花して程なくすると、緑豆ほどのブドウが実ります。

(「葡萄月令」、執筆:1981年)

③ 他们捡枸杞子其实只是玩!一边走着,一边捡枸杞子,这比单纯的散步要有意思。这是两个童心未泯的老人,两个老孩子!

「クコの実」(写真出典:
https://www.seikatsu110.jp/garden/gd_prune/139634/)

 彼らがクコの実を拾うのは、実は遊んでいるだけなのです。歩きながらクコの実を拾うことは、普通の散歩よりももっと面白いのです。子供の心を持ち続けている二人のお年寄りは、本当に年を取った二人の子供なのです。

(「人間草木枸杞」、執筆:1990年)

④ 她又去转了转罗汉堂,爬到千佛楼上看了看。真有一千个小佛!她还跟着一些人去看了看藏经楼。藏经楼没有什么看头,都是经书!妈吔!逛了这么一圈,腿都酸了。小英子想起还要给家里打油,替姐姐配丝线,给娘买鞋面布,给自己买两个坠围裙飘带的银蝴蝶,给爹买旱烟,就出庙了。

 彼女は羅漢堂もぶらついて、千仏楼に登って見て回りました。本当に千もの小さな仏像があるのです!彼女は他の人たちについて藏経楼も見学しました。藏経楼にはあまり見どころがなく、経本ばかりでした。あ~あ!ぶらぶらと一回りしてきたら、足が疲れてしまいました。家には油を買って、姉には刺繍用の絹糸を用意し、母には布靴用の布を買い、自分には前掛けの帯に垂れる銀の蝶々を買って、父には刻みタバコを買わなくてはと思い出し、小英は寺を出ました。

(「受戒」、執筆:1980年)

生活五味

① 一个文艺工作者、一个作家、一个演员的口味最好杂一点,从北京的豆汁到广东的龙虱都尝尝(有些吃的我也招架不了,比如贵州的鱼腥草);耳音要好一些,能多听懂几种方言,四川话、苏州话、扬州话(有些话我也一句不懂,比如温州话)。否则,是个损失。口味单调一点,耳音差一点,也还不要紧,最要紧的是对生活的兴趣要广一点。

「豚足の醤油煮」
(撮影:閻秋君、台北にて、2019.11)

 北京の豆汁(水に浸して柔らかくした緑豆をすり潰して作る飲み物)から広東の龍虱(ゲンゴロウ)まで、文化人、作家、俳優は味覚が多様な方が良いでしょう。(貴州のドクダミなど、私もいくつかは食べられません)音感が優れていれば、方言がいくつか分かります。四川方言、蘇州方言、揚州方言(温州方言など、私が聞いても分かりません)。そうでなければ、損をしてしまいます。味覚の幅が狭くても、音感が少し劣っていても、それらはまだいいのですが、一番大切なのは、生活への興味の幅が広いことなのです。

(「口味・耳音・興趣」、執筆:1986年)

「麻辣小龍蝦」
(撮影:閻秋君、仙台にて、2019.10)

② 总之,一个人的口味要宽一点,杂一点,“南甜北咸东辣西酸”,都去尝尝,对食物如此,对文化也应该这样。

 要するに、幅広く多くの味を楽しむべきです。「南の甘さ、北のしょっぱさ、東の辛さ、西の酸っぱさ」などはいろいろと味わってみた方がいいのです。食べ物に関してはこうなのですが、文化に対してもこうあるべきなのです。

(「口味」、執筆:1986年)

③ 蒙古人非常好客,有人骑马在草原上漫游,什么也不带,只背了一条羊腿。日落黄昏,看见一个蒙古包,下马投宿。主人把他的羊腿解下来,随即杀羊。吃饱了,喝足了,和主人一家同宿在蒙古包里,酣然一觉。第二天主人送客人上路,给他换上一条新的羊腿背上。这人在草原上走了一大圈,回家的时候还是背了一条羊腿,不过已经不知道换了多少次了。

 モンゴル族はとても客好きです。馬に乗って草原を逸遊している者がいました。彼は何も持っていませんでした、一本の羊の足のほかは。夕暮れ時に、ゲルが見えたので、彼は馬を下りてそこに泊まろうとしました。そこの主人は、彼が持ってきた羊の足を下ろしてから、すぐ自分の羊を殺して彼を歓迎しました。彼は十分に食べて、十分に飲んでから、その主人のゲルでぐっすり休みました。翌日、彼を見送る時、主人は新しい羊の足を持たせました。彼が草原を一回りして、家に着いた時にも、まだ一本の羊の足を背負っていました。その羊の足が何回入れ替わったのかは、もう分かりません。

(「手把肉」執筆:1993年)

「家庭料理」
(撮影:閻秋君、仙台にて、2019.11)

④ 家常酒菜,一要有点新意,二要省钱,三要省事。偶有客来,酒渴思饮。主人卷袖下厨,一面切葱姜,调作料,一面仍可陪客人聊天,显得从容不迫,若无其事,方有意思。如果主人手忙脚乱,客人坐立不安,这酒还喝个什么劲!

 家庭料理は、主に新しいアイディア、節約、便利の三点が必要です。たまに来客があり、酒を欲しがります。主人は腕を振るって料理をします。ネギと生姜を切って調味料を作りながら、来客とおしゃべりもします。落ち着いてゆったりすることこそがおもしろいのです。もし、主人が忙しそうにしていて、来客が落ち着いていられないとしたら、この酒は何のために飲んでいるのだろうか。

(「家常酒菜」、執筆1987年)

文章真情
(汪曾祺写真、汪朝により提供)

① 一篇散文最重要的是什么呢?我只是觉得写什么都要有真情实感。不要写自己没有感受过的景色、自己没有体验过的感情。最怕文胜于情,有广告式的感伤主义的调子。散文要控制。要美,但要实在。写散文要如写家书,不可做作,不可存心使人感动。

 散文(エッセイ)において最も重要なのは何でしょうか。何を書くにしても偽らざる気持ちが大切だと思います。今までに見たことのない景色や、今まで経験したことのない感情は書かない方がいいのです。私が最も苦手とするのは、文章が感情に勝り、広告のようになってしまっている感傷主義的な調子のものです。エッセイには調子のコントロールが必要なのです。美しく書くと同時に、うそ偽りのないことを心がけましょう。エッセイを書くということは、家族への手紙を書くようなものであり、わざとらしくなく、意図的に読者を感動させないほうがいいのです。

(『蒲橋集』、執筆:1981年以降、詳細不明)

「生活·直耕」
(撮影:閻秋君、遠野にて、2019.8)

② 我要对“小说”这个概念进行一次冲决:小说是谈生活,不是编故事;小说要真诚,不能耍花招。小说当然要讲技巧,但是:修辞立其诚。

 「小説」という概念に対して、私はある決断しようと思います。小説は生活を語るものであって、フィクションの物語を作るものではありません。小説は誠実さが必要であって、ごまかすようなことをしてはいけません。もちろん、小説には技術が欠かせないものですが、その技術は誠実のもとにあるべきなのです。

(「橋辺小説 後記」、執筆:1985年)

「妙手生花」
(撮影:閻秋君、野辺地の大根畑にて、2017.8)

③ 我希望年轻人多积累一点生活知识。古人说诗的作用:可以观、可以群、可以怨,还可以多识于草木虫鱼之名。这最后一点似乎和前面几点不能相提并论,其实这是很重要的。草木虫鱼,多是与人的生活密切相关。对于草木虫鱼有兴趣,说明对人也有广泛的兴趣。

 私は若者に、生活における知識をたくさん蓄積してほしいのです。古代人は詩の役割について、物事を見る目を養うことができ、人と交わる心を培うことができ、怨ごとを表現する方法を知ることができ、そして、草木虫魚の名前を多く知ることができるのだと言いました。この最後の部分は、前の部分と一緒に論じることができないように見えますが、実際には非常に重要なことなのです。草木や虫魚は、人間の生活と密接な関係を多く持っています。草木や虫魚に興味があるのなら、人間に幅広い興味を持っているということでもあるのです。

(「葵・薤」、執筆:1984年)

「人間の美意識」
(撮影:閻秋君、鳴子にて、2016.5)

④ 我是个写小说的人,对于人,我只能想了解、欣赏,并对他进行描绘,我不想对任何人作出论断。像我的一位老师一样,对于这个世界,我所倾心的是现象。我不善于作抽象的思维。我对人,更多地注意的是他的审美意义。

 私は小説を書く者です。私は人間を理解し、評価し、描写したいだけなのです。私は誰に対しても判断を下したくはありません。私の先生の一人と同じように、この世界に対して、私が心を惹かれるのは現象です。私は抽象的な思考が得意ではありません。人間に対して、私が最も関心を持っているのは、彼らの美意識です。

(「小説三篇・売蚯蚓的人」、執筆:1983年)

人生邂逅

① 我刚到昆明的头二年,一九三九、一九四〇年,三天两头有警报。有时每天都有,甚至一天有两次。昆明那时几乎说不上有空防力量,日本飞机想什么时候来就来。〔…〕跑警报是谈恋爱的机会。联大同学跑警报时,成双作对的很多。空袭警报一响,男的就在新校舍的路边等着,有时还提着一袋点心吃食,宝珠梨、花生米……他等的女同学来了,“嗨!”于是欣然并肩走出新校舍的后门。跑警报说不上是同生死,共患难,但隐隐约约有那么一点危险感,和看电影、遛溜翠湖时不同。这一点危险感使两方的关系更加亲近了。

「道端の小花」
(撮影:閻秋君、仙台にて、2020.5)

 私が昆明に来て最初の二年間、一九三九、四〇年は、頻繁に空襲警報が鳴りました。時には毎日、さらに一日に二回鳴ることもありました。当時の昆明は攻撃を防ぐ手立てがなかったとも言えます。日本の軍用機はいつでも来ることができたのです。〔…〕空襲警報時の避難は、恋を語るチャンスでした。西南聯合大学の学生が避難する時には、カップルの姿が多かったのです。空襲警報が鳴ると、男子学生は新校舎の道端で待っていて、時には、梨や落花生などのお菓子の袋を持ってきて、その学生のお目当ての女子学生が来ると、「やあ」と声をかけるのでした。そして、彼らは肩を並べて校舎の裏口を出て行きました。警報時の避難は、生死を共にし、苦難を分かち合うとまでは言えませんが、ぼんやりとした危機感はあったのです。映画を見たり翠湖をぶらついたりする時とは違うものでした。このぼんやりとした危機感は、二人の関係をより親密にさせたのでした。

(「跑警報」、執筆:1984年)

「昼間に訪れる光」
(撮影:閻秋君、盛岡にて、2019.11)

② 活在世上,你好像随时都在期待着,期待着有什么可以看一看的事。有时你疲疲困困,你的心休息,你的生命匍伏着像一条假寐的狗,而一到有什么事情来了,你醒豁过来,白日里闪来了清晨。

 この世に生きていると、何か目に見えることをいつも期待しているようです。時には、疲れて眠くて、あなたの心は休んでしまいます。あなたの生命は、うたた寝する犬のように伏しています。しかし何かが起こると、あなたは、昼間に突然朝が来たかのように、すぐに目覚めるのです。

(「邂逅」、執筆:1949年)

「躍動の楽譜」
(撮影:閻秋君、仙台澱橋にて、2020.3)

③ 说不出什么道理,天就是这样,老是这样,什么东西都没有,就是一片蓝。可是天上似乎隐隐地有一股什么磁力吸着你的眼睛。你的眼睛觉得很舒服,很受用,你愿意一直对着它看下去,看下去。真好看,真美,美得叫你的心感动起来。小吕看着看着,心里总像要想起一点什么很远很远的,叫人快乐的事情。

 どういうことなのかは上手く言えないのですが、空とはつまり、このような感じで、いつもこのようなのです。何もなく、ただ青いのです。しかし、空には何か仄かな磁力があるかのように、あなたの目を引き付けます。あなたの目はとても心地よく、楽しんでいます。あなたはずっと空を見ていたいと思うのです。とてもきれいで、あなたの心が感動するほどの美しさなのです。小呂はそれを見ていると、心の中で遠く離れている何かを、楽しみと呼ばれている何かを思い出したいといつも思うのです。

(「看水」、執筆:1962年)

関連資料

・「汪曾祺語録」閻秋君 編訳(日本語):PDF
・閻秋君「汪曾祺作品の翻訳について」(2020.5.9)はこちら

投稿日: カテゴリー 翻訳