【人間草木:翻訳】汪曾祺「老舎先生」閻秋君 編訳

老舎先生

作者:汪曾祺
翻訳[1]:閻秋君

 北京の東城区迺茲府の豊富胡同には小さな庭があります。この小さな庭に入ると、とても静かで格別に明るく感じます。庭はいつも日光で溢れています。

老舎北京旧居、現老舎記念館。写真は老舎記念館により提供

 中庭には二本の小さな柿の木があります。〔今はおそらくとても大きくなっていることでしょう〕中庭、廊下、部屋のいたるところに花があり、隙間なく並べられています。季節ごとに変わる花は、とても元気でしっとりとしていて、葉は滴るように青く、花は盛んに咲いています。これらの花は全部、老舎先生と奥さん、胡挈青が自ら世話しています。快晴の時、彼らはこれらの花を鉢ごとに庭へ運びます。花を運ぶ作業でたくさんの汗をかきます。風が強く雨が降る時、またこれらの鉢を一つずつ部屋に戻します。すると、また熱くなり汗をいっぱいかきます。老舎先生はかつて「花は人により育てられるものだ」と言っていました。老舎先生は花が大好きで、本当に花に夢中で、あってもなくても良いという程度では決してありません。

葉浅予による老舎の肖像画、写真は李建新により提供

湯顕祖[2]は自分の劇曲を「俊得江山助(山河が際立たせてくれた)」と評しましたが、老舎先生の文章も「俊得花枝助(花枝が際立たせてくれた)」とも言えます。かつて葉浅予[3]は、老舎先生の肖像画を描きました。その画の老舎先生、周りが全て花で飾られた藤の椅子に座り、少し頭を上げ、悠然としています。この画は写実的なスケッチではありませんが、老舎先生の雰囲気を正確に伝えています。

 来客者が北側の居間に案内されると、老舎先生は西側の部屋から出て来ます。西側の部屋は老舎先生の書斎兼寝室です。家具はとてもシンプルで、テーブルが一卓、椅子が一脚、ベッドが一台だけです。老舎先生は腰が悪いので、硬いベッドで寝ることに慣れています。老舎先生は優雅で礼儀正しいです。先生の握手は簡単なものですが、とても心のこもったものです。茶葉が十分に淹れてから、老舎先生はお茶を注ぎます。私の記憶では、老舎先生はいつも自ら来客者にお茶を注ぎます。

 老舎先生はお茶を飲むのが大好きです。よく飲みますし、濃いお茶を飲みます。先生はこういう話を私にしてくれたことがあります。老舎先生がモスクワへ会議に行った時、ホテル側は先生のために特別に魔法瓶を用意してくれました。しかし、先生がお湯を入れてお茶を少し飲むと、瞬く間にウェイターがお茶を捨ててしまいました。「彼らは中国人が一日中お茶を飲むことを知らない!」

老舎北京旧居、撮影:勝山稔、2002.11.9

 老舎先生が仕事中なら、たまには、来客者をしばらく待たせることもあります。それでも来客者は、花を見ることができるので退屈に感じません。夏ならば、香白杏の甘い香りが漂うことでしょうから、このよい香りを楽しんでもらうために、老舎先生はわざと香白杏をテーブルの上に置きます。また、立ち上がって西の壁に掛かっている絵を見ることもできます。

 老舎先生が収集している絵はとても豊富で、それらのほとんどは素晴らしい作品です。斉白石[4]のコレクションは「絶品」と言えます。壁に掛かっている絵はよく入れ替えられますが、一番長く飾られているのは、老舎先生のテーマに沿って白石先生が描いた四枚の絵です。そのうちの一つは、多くの人が文章で言及した「蛙声十里出山泉(蛙声十里山泉を出る」)」です。「カエルの音」をどう描けばよいでしょうか?白石先生は、活気のある清らかな泉だけ描きました。その両側は黒い石の崖です。そして絵の一番下には、尾を振っている何匹かのオタマジャクシが描かれています。この絵が表装された直後、私は老舎先生の家に行きました。その時、老舎先生は白石先生の想像力を絶賛しました。

 老舎先生は白石先生をとても尊敬しています。白石先生の話をすると、いつも真剣な面持ちになりました。私が知っている白石先生の逸話は、ほとんど老舎先生から聞いた話です。例の四枚の絵の一枚、もともとは老舎先生が蘇曼殊[5]の詩(具体的にどの詩なのかは、はっきり覚えていませんが)をテーマに、芭蕉を描くように頼んだものでした。その依頼を聞いた白石先生は長い間考えていましたが、最終的に描くことはありませんでした。なぜかというと、芭蕉の芯が左方向に巻いているのか、右方向に巻いているのかを覚えておらず、嘘を描いてはいけないという考えからです。老舎先生はこう言いました。「先生は真剣です。」老舎先生は白石先生の絵画の映画を作ろうと思い、何枚か自信作を見せるよう白石先生に頼みましたが、白石先生は「ない。」と答えました。白石先生の弟子が、繰り返し彼を説得すると、彼は絵画用の机の隙間から一巻きを取り出しました(彼はもともと木工職人で、絵画用の机には独自の「メッセージ」があるようです)。外側は何枚かの新聞紙に包まれていて、その新聞には大きな文字が書かれています。「これは紙くずです」と。絵を開いてみると、それらは全て驚くほどの傑作でした。そして、それらは――後のドキュメンタリーで撮影されたものでもあります。白石の家には住人が多く、毎日のお米の量は、白石先生自身が全てタバコの缶で計っていました。「一杯、二杯、三杯…これでよし!」-「もう少し入れて、もう少しだけ!」-「こんなにたくさん食べるのか!」。以前、誰かが白石先生を他の所で暮らすよう提案しました。もう年なので、このような些細な家事に気配りする必要はないと。老舎先生はそれを知ると、「やらせてやってください。白石先生の日課となっているのです。それを彼から奪ってしまったら、彼は生きていくことができませんよ。」とその人を留めました。老舎先生の意見はまさに、他人に対する理解、生活習慣の尊重、また、白石先生に対する真の心遣いなのです。

 老舎先生はとても親切で客好きな方です。そのため、毎日、午後になるとお客さんが次々と訪ねてきます。作家、画家、劇曲、俳優…老舎先生はいつも丁寧にお客さんと向き合い、彼らの話にも耳を傾けます。

 老舎先生は、毎年、二回ほど北京市文聯の同僚を家に招いて食事します。一回は菊が咲く時期です。皆で菊を楽しみます。もう一回は先生の誕生日です。たしかそれは旧暦の十二月二十三日と記憶しています。料理もお酒もとても豊富で、しかも特別でした。お酒は「飲み放題」のように、汾酒(フェンチュウ)、竹葉青酒(チューイエチンチュウ)、ウォッカなどいろいろあり、飲みたいものを思い切り、限界まで飲んでもいいのです。一度など、老舎先生は一本のワインを丁寧に取り出して、毛沢東主席がくれたお酒なので、皆さんも少し飲んでみてはいかがですかと勧めてくれました。料理は全て老舎先生自ら用意したものです。皆に本物の北京料理を味わってもらいたいからです。

芝麻醤炖黄花魚のイメージ写真、写真出典:www.xinshipu.com/zuofa/194781

私は今でも、芝麻醤炖黄花魚(イシモチのゴマ味噌煮込み)を覚えています。その日まで、私はこの料理を食べたことがなく、またその後も一回も食べたことがありません。老舎先生家の芥末墩(白菜の辛し和え)は、私が今までに食べた最高の芥末墩です!ある年、老舎先生はわざわざ盒子菜(重箱料理)を二段注文していただきました。直径約三尺(約百センチメートル)の朱色の漆箱は複数に仕切られており、ハム、腊鴨(味付けアヒル)、小肚(豚肉の腸詰め)、口條(豚や牛のタン)など切りそろえただけのものにすぎないのですが、いずれも絶品でした。ゆでた白菜が出されると、老舎先生は「おいでよ、これこそ本当に美味しいものだよ!」と箸を差し出しました。

 老舎先生は彼の部下のことをよく知っていて、いつも面倒を見ています。当時、文聯には職員が少なく、老舎先生は誰のことでも詳しく知っていました。彼は部下の履歴書を見ません。ましてや、「個別」の面談などもしません。普段の交流から一人一人の素質や才能を把握しています。それは履歴書を見るよりはるかに正確です。老舎先生は才能を大事にして、才能のある若者をさまざまな場所でよく賞賛しました。「平生不解蔵人善、到処逢人説項斯(平生より人の善を蔵すこと解わず、到るところ人に逢えば項斯を説く)。」[6]そのため、一部の人から見れば、老舎先生の褒め言葉は、大げさに言うきらいもあり、口を挟む余地を残していません。しかし、老舎先生は曖昧で漠然としたオフィシャルな話をする人間ではありません。私は文聯で数年間働いてきた中で、私たちのリーダーは作家であるといつも感じていました。先生と私たちとの関係は、上司と部下ではなく、先輩と後輩の関係です。老舎先生の「作家リーダー」のスタイルは、文聯にとても良い影響を与えました。誰もが平等に付き合い、素直に意見を交換し、他人との会話を心配することもなく、誰もが文人らしい気質を持っていました。このようなリーダーシップのスタイルは、今日の多くの文化部門のリーダーには欠けているものです。

仕事中の老舎、写真は老舎記念館により提供

 老舎先生は北京市文聯の主席を務めています。当然、先生はいくつかの「公務」に対応しなければなりません。文書の閲覧、会議の開催、報告の作成〔他の人より起草されたもの〕しかし、北京市の文化活動の担当者として、先生はしばしば他人が考えていない、或いは考えることができない問題に心を留めています。

 北京解放(1949年)以前、目の不自由な数名の芸人が、通り沿いで見世物をしたり、占いをしたりして、苦しい生活を送っていました。彼らの芸は目が見える芸人と全く同じではありません。老舎先生は一部の盲人芸人を熟知していました。先生は彼らを集めて芸での生計の道を切り拓き、彼らの芸が途絶えることのないよう提案しました。各部門の注目を集めるために、先生は盲人の芸人を北京文聯へ招いて歌わせました。

『茶館』(1956)第一幕手稿、 撮影:勝山稔、2002.11.9

老舎先生は自ら司会を務め、各芸人を来席の皆に紹介しました。特に芸歴が長い翟少平さんと王秀卿さんに「当皮箱」を歌ってもらいました。これは喜劇のような曲で、登場人物のなかの質屋は山西省の方言を話します。「鸚哥調」というリズムがあって、最後の部分は、舌と喉を使って豚が食べているような音を出します。とても特別で、とても面白いです。この部分とこのリズムは、目の見える芸能人はできません。老舎先生はその日とても興奮していました。

 北京には智化寺という寺があり、そこの僧侶は他の寺とは異なり、音楽を演奏します。彼らが演奏する曲は並外れて古くからあります。そこで、彼らが使用する楽譜は他の人には読むことができません。楽譜の表記は一般の五線譜ではなく、いくつかの奇妙な符号です。楽器は、現在よく見られるものに似ていますが、主な楽器はチューブです。これは唐代の「燕楽」だそうです。解放後、寺院の僧侶の大半はすでに各自生計を立てていましたが、彼らはまだ集まることができました。老舎先生は、彼らを招待して一度演奏してもらいました。音楽業界の仲間は、この古代の音楽に非常に興味を持ちました。そのことを知って老舎先生もとても興奮していました。

「当皮箱」と「燕楽」は、その後どうなったのか、私は分かりません。

 老舎先生は長年にわたって北京市の市民代表でした。市民代表が市民のために発言しました。かつての人民代表大会の文書集は、代議員の提案を全部まとめて印刷するものでした。ある年、老舎先生は次のように提案しました。「政府が胡麻味噌の供給問題を解決することを希望します。」その年の北京では、胡麻味噌が品切れでした。老舎先生は「北京人の夏の生活には、胡麻味噌は欠かせないものです!」と訴えました。間もなく、胡麻味噌は北京の食料品店で売られるようになり、北京の人々はまた香ばしいごま麺を食べることができました。

 老舎先生は全国の人民の一人であったが、なによりまず北京の人であったのです。

 1954年、私は北京市文聯から転勤して、それ以降は老舎先生の家に行くことは滅多にありませんでした。先生は時々私のことに言及したと聞いています。

1984年3月20日


脚注

[1]『汪曾祺全集』(人民文学出版社、2019)の「書信編」編集者・李建新氏の仲介で、汪曾祺氏の娘・汪朝氏から翻訳の許可を得た。文中写真は勝山稔氏、李建新氏、老舎記念館により提供。上記の諸氏に感謝の意を表す。また、訳文の括弧()内の解釈は訳者による。
[2]湯顕祖(TANG Xianzu、1550~1616)、明代の詩文家、劇作家。当時の文学界において、古典の格調を模倣して詩文を創作するという文学運動は強力に展開されていた。湯はその文学理念に反対し、自然の性霊(意趣)を詩文の眼目とすべきことを主張した。代表作は劇曲『牡丹亭』(『還魂記』とも言う)、『南柯記』など。『デジタル版 集英社世界文学大事典』参照。
[3]葉浅予(YE Qianyu、1907~1995)、人物画家。彼は20世紀の中国美術界において、スケッチの指導的役割を果たしていた。老舎の劇作『茶館』、茅盾の小説『子夜』にも挿絵を描いた。城山拓也「中国をスケッチする方法:『浅予速写集』と『旅行漫画』について」(『超域的日本文化研究』第9号、2018、26~39頁)参照。
[4]斉白石(QI Baishi、1863~1957)、清末から近代の文人画家。花鳥・虫魚を題材に画境を開拓し、篆刻も優れた。特に蛙や蝦などの題材が得意であり、中国の水墨・淡彩画の伝統を守った。『デジタル版 日本大百科全書』参照。
[5]蘇曼殊(SU Manshu、1884~1918)、清末から民国初年の文学者。代表作は小説『断鴻零雁記』。『デジタル版 日本大百科全書』参照。
[6]唐の詩人楊敬之(YANG Jingzhi、生没年不詳)の「贈項斯」(『全唐詩』)による。

関連資料

・汪曾祺「老舎先生」閻秋君訳(日本語):PDF
・汪曾祺「老舎先生」原文(中国語)リンクはこちら
・閻秋君「汪曾祺作品の翻訳について」(2020.5.9)はこちら

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