【COVID19:翻訳】韓東育「民間外交と文化共有が新時代の日中関係を構築することに対する意義」劉宇昊 訳

民間外交と文化共有が新たな時代の日中関係の構築にもたらす意義

——日中が手を携えて新型肺炎の流行に立ち向かうことへの若干の思考 #

韓東育*

翻訳:劉宇昊(東北大学大学院 博士後期課程院生)

一、「守望相助」(互いに見守り、助け合う)が新たな時代の日中関係にエネルギーを注ぐ 

 中国で猛威を振るう新型コロナウイルス感染による肺炎流行の後、この間ずっと中国とギクシャクと摩擦を生じてきた日本に、意外にも中国を応援する義挙が現れた。とりわけ日本が「全国の力を挙げて」中国とともに危機を乗り越えようとする態度は、中国人に意外の感を与えた。これは中国人が思ってもいなかった情況下に、日本の官民がほとんど爆発的ともいえるくらい中国への善意を表現したわけで、久しぶりの日中の「急接近」である。

 人々がまず気づいたのは日本の民間の反応である。武漢がロックダウンした後、日本政府は居留民の引き揚げを決定した。ある記者が気づいたのは、合弁企業の日本側幹部が残留を選んだ以外には、「武漢と共に生きていく」という誓いを立てた大学教授の津田賢一の存在である。今年44歳、北海道大学の環境科学博士。2019年に津田は華中農業大学に高レベル人材として招聘され、同校の植物科学技術学院及び農業微生物学国家重点実験室組織で、多くの優れた成果をもたらした仕事を行った。突然の疫病流行に際して、津田は武漢の人々と一緒にいることを選んだ。北海道テレビの記者がその理由を聞いた時、彼の答えは素朴で穏やかだった。「疫病が爆発的に流行している現在、わたしは帰国を選ぶこともできるが、研究室には中国の学生もいる。わたしの立場としては、同僚と学生を置いて、一人で日本に帰ることはできない!」。もう一人断固として残留を選んだ日本人は、自撮り旅行ドキュメンタリーの『私がここに住む理由』によって深く中国のネットユーザーに愛されている老人、島田孝治である。彼は70歳過ぎだが、長いあいだ武漢市でカレー店を経営している。新型肺炎の流行に直面し、彼は「わたしは武漢人」と言い、さらには「中国で死ぬ」ことを「覚悟」した。そうすれば遺産を武漢に遺し、深愛する武漢人にそれを遺留できる。古希の老人は新型コロナウイルスが最も侵害しやすい対象であり、生死に直面してこのように選択するのは、帰国して難を避けることのできる外国人にとって、実際に容易なことではない。これら普通の日本人の生き方から伝わってくるものは、天災に面したときの淡然たる落ち着きと、人に対し事に対する際の責任と大義である。

 視線を日本国内に転じると、また感動的なシーンがあちこちに見られる。大量の日本人が中国を援助するために、続々とまたたく間に財布の紐を惜しみなく解き、中にはその底をはたくことさえ惜しまない人もいる。武漢で伝染病が確認され、疫病に立ち向かうための物資が不足している状況下、大手小売企業のイトーヨーカドーは速やかに中国にたいして100万個のマスクを寄付し、ならびに第1期にそれを武漢に運び入れた。そのほか、多くの中国人がほとんど聞いたことのない日本の県市が、続々と中国の友好省と都市に向けて、マスクや防護服などの防疫物資を探し集め、すべて中国に送っている。たとえば、大分は武漢、水戸は重慶、東京は湖北、鳥取は琿春、滋賀は湖南、香川は陝西、苫小牧は秦皇島、宮崎は葫芦島、太田は余姚、秋田は無錫、浜松は杭州、沼津は岳陽、厚木は揚州、豊川は南通、彦根は湘潭、千歳は長春、沖縄は福建、新潟はハルビン、鹿児島は長沙、薩摩の川内は江蘇の常熟に、新潟の柏崎は四川の峨眉山に、などなど。これは一種、日本全土におよぶ募集イベントである。このイベントでは、日本の民間が解き放った善意が、中国人の目を潤した。中国中央ラジオテレビ総台(CMG)の駐日記者の何欣蕾が気づいたのは、大阪の街頭で市民が「がんばれ武漢!」と書いた垂れ幕をかかげ、箱根や富士山などの観光スポットには中国語で書かれた「武漢がんばれ」のポスターが貼られている。東京池袋での中国元宵節の灯会(東京燈会満月祭池袋2020)で、14歳の日本の女の子がチャイナドレスを着て通行人に90度のお辞儀をして武漢のために募金した。羽咋市の日中友好協会の会員50人が、会費でマスクを買って中国に送った。その後、彼らは隣町に出向いて仕入れを続け、マスク4000個を再び寄付する計画。日本側がグリーンゲート(無申告通路)を開放したことにより、江西曹洞慈善基金会が千葉県の病院で2万個のマスクを買うのに、商品の仕入れ先探しから荷物の目的地到着まで四日しかかからなかった。日本の各界はまた全力を尽くして在日華僑組織の援助活動に協力している。たとえば日本湖北総商会が寄付した救援物資は、すべて東京のいくつかの大手物流会社の提供によって運送をサポートされた。記者の統計によると、2020年2月7日までに日本国内の各界が寄付した対中国救援物資の累計は、防護マスク633.8万個余り、手袋104.7万枚余り、防護服と隔離服17.9万セット以上、ゴーグルとフレーム7.8万個余り、防護帽1000個、靴1000足、防護靴30組み、大型CT検査設備(5000万円)1台、体温計1.6万個余り、消毒水1.15トン、消毒粉末1トン、消毒用品2400件余りであり、累計募金額は約4.7億円に昇る。ダイヤモンド・プリンセス号で新型コロナ疫病が発生した後、日本は一時、中国外で最も多くの患者が確認された国になった。自身の医療物資も急速に不足した。しかし、少なくない日本の民間企業はなおも湖北の援助をつづけ、コストを惜しまない。そのため、中国のネットユーザーはついに「これ以上送らないで、自分に残しておいて。あなた方も必要だよ」と呼びかけ始めた。年齢を問わず、階層を問わず、地域を問わない今回の中国に対する支援行動は、史上まれに見るものである。

 正直に言うと、安倍晋三政府が中国で新型肺炎の発生後にとった態度は、世界各国における中国に対する同情と支持の点で、最も早く最も明確だった。2020年1月23日、日本の衆議院本会議で、安倍首相は新型コロナウイルスの予防を強化するとともに、全力をあげて中国人民の疫病に対する抵抗を支持し、中国政府との協力を強化すると強調した。1月26日、中国の王毅国務委員は日本の茂木敏充外務大臣と通話し、茂木敏充氏は「日本側は中国側とともに疫病の脅威に対処し、中国側に全面的な支援を提供したい」と述べた。1月27日、安倍首相は、新型肺炎を感染症法上の「指定感染症」に指定し、国家の対応が求められる感染症として、日本人と非日本人の治療に対して原則として「同等の待遇」を与えた。1月28日夜、日本政府は武漢の在留民を帰国させるための飛行機に、日本政府から中国に支援するマスクや防護服などの物資を大量に搭載した。2月7日、すでに81歳の高齢となる自民党幹事長の二階俊博がわざわざ中国の駐日本大使館に出向き、自民党を代表して中国に10万枚の防護服を寄付した。本来、中国の企業はこれらの防護服を購入するつもりだったが、日本側は絶対に売ろうとせず、無償で中国に寄付した。二階俊博は、孔鉉佑大使にたいし、「日本にとって、中国が疫病に遭っているのを見るのは、親戚や隣人が困難に遭うのと同じだ」、「われわれは常に困難の際に真の友を知ると言う。日本は全国の力を結集し、総力を挙げて中国に一切の援助を提供し、中国とともに疫病に立ち向かうつもりである。わたしは日中両国が協力しさえすれば、できないことは何もないと確信している」と述べた。中国の在日古参記者の蒋豊は、「長い日中関係の交流の歴史において、『全国の力を挙げて』といった語を人びとは聞いたことがない。今回の中国での疫病発生に日本が「全国の力を挙げて」支援したことは、新時代の日中関係に巨大な暖流を注いだに違いない」と感嘆した。2月10日夜、安倍が主催となって開いた自民党の役員会で、党所属の国会議員一人当たり三か月分の給料から5000円を差し引いて、中国の疫病対策に寄付することを決定した。日本の議員が集団で自分の給料から中国を支援するようなことは、日中両国の歴史上でも極めてまれな出来事である。東京都民の気持ちを伝えるため中国に防護服を2万着送った後、東京都知事の小池百合子はさらに中国に10万着の防護服を寄付した。現職の政治家のほかにも日本の過去の多くの政府要人が、つぎつぎに財布の紐を解き援助するのは、印象的である。日本の村山富市元首相は、大分県の自宅から中国メディアのビデオショットに向かって、強い九州方言のなまりで一語一語力をこめて叫んだ、「武漢がんばれ!武漢がんばれ!」。

二、民間交流が新時代の日中関係を推進する重要な手段

 かつて周恩来総理が日中交流の歴史を語った際、「二千年の友好、五十年の干戈」と総括した。しかし、不幸な戦争の時代はわずか50年でも、この半世紀の間に日本の侵略戦争が中国人に焼きつけた「国仇」の痕跡は、人々の記憶の中からそう簡単には消し去ることは難しい。1972年の日中国交正常化の交渉は、わずか5日間で戦後両国の非正常状態を終結させる共同宣言を成し遂げた。このような壮挙は、その世代の両国政治家の高い地位と遠望卓識を浮き彫りにしている。しかし、抗戦期間中に生命財産の巨大な損失を被った中国人民に「家の仇」を徹底的に忘れさせることは容易ではない。まさにそうした背景の中、1970年代末に大平正芳首相が対中国政府開発援助(ODA)を開始した。日本の学者、毛里和子の解読によると、そのプロジェクトは「心情的には賠償の思いがあっても、(日本は)中国側に伝えられておらず、また日本自身にどんな手段を取っても賠償を進めるという決断を欠いていた。1972年の交渉で中国側から譲歩を得たのは、日本にとっては一種の僥倖であり、また一種の成功でもあったので、そのために残された遺漏を補填する努力を忘れた」。小泉純一郎政権以来、日中両国の間には時にあれこれの摩擦もあったが、しかしつねに民間外交が問題解決のための有効な方法であった。2008年の中国汶川大地震の時、日本は第1期に救援隊を派遣した。隊員たちのプロフェッショナル意識や、犠牲者の遺体に黙祷する場景、生存者を救出できなかったために責任を取って辞職した恥の表明は、中国人民に深い印象を残した。2008年7月7日、中国の胡錦濤国家主席は、北海道洞爺湖サミットに参加し、忙しい仕事の合間に時間を作り、四川省の救援に赴く日本の救援隊の隊員を見舞いに行った。この行動は、現場のすべての人びとを感動させた。当時の救援隊の重要メンバーの一人である田尻和宏は、後に日本の在瀋陽総領事館の総領事となる。逆に2011年3月、東日本大地震、津波、原発事故が発生した後、中国国務院の温家宝総理も被災地を慰問し、中国人民が日本へ寄付した大量の物資と義援金を持参したのみならず、工員の服装で日本の民衆の避難用の臨時住宅に入って、親切で温かい心の交わりによって、日本の民衆を深く感動させた。

 このようなお互いの感動は、今日の新型コロナ肺炎の流行においても変わらないだけでなく、逆に「投桃報李」(相互に酬いあう)の感恩の感情にいっそうの拍車をかけている。中国駐日本大使館のホームページが2020年2月29日に伝えた情報によると、疫病発生以来、日本政府と社会各界は続々と援助の手を差し伸べ、さまざまな方法で中国の疫病対策を支持し、中国人民はそれを心に刻んだ。最近は日本も疫病防御の重要な時期に入った。中国もそのことをよく知っており、自国の疫病対策に努力すると同時に、力を尽くして日本に支持と協力を提供したいと願っている。先ごろ、中国は日本にウイルスの検出試薬キットを交付し、また5000着の防護服と10万個のマスクを何度かに分けて寄付することを決めた。そのうち、最初の2回の物資はすでに2月27、28日に東京に到着した。中国中央政府の大義をわきまえた行動以外に、多くの中国の地方の省市、企業、個人も積極的に行動し、日本に物資を援助し、日本を応援している。中国の企業と留学生が東京などの地で自発的に組織した「報恩」の動きも同様に感動的である。2月20日、日本のメディアは「日本の支援に恩返し、中国企業が歌舞伎町で日本人にマスク配る」と題し、中国人の行為を絶賛した。日本のメディアはまたわざわざ「2000年の友好、50年の対立、10000年の未来!」という現場のスローガンを記した。中国人留学生の曽穎が、東京の街頭に立って鹿の角の帽子をかぶって、「武漢からの恩返し」のプラカードを手に持ち、通行人のために無料でマスクを配っている。消息筋によると、アリババグループの創始者である馬雲は日本に100万個のマスクを寄付した後、日本の3・11震災9周年の日に、東京都に10万個のマスクを寄付した。日中は一衣帯水の友好的な近隣どうしであり、疫病に際してはさらに「守望協力」(互いに見守り、助け合う)の運命共同体である。このたびの中国の疫病流行にたいする、日本の官民らの感情表现の噴出をふり返ると、言語であれ行動であれ、平素の日中両国の患難における交誼とお互いの「恩恩相報」(恩で恩を報いる)こそ、真率な「善因善果」だと分かる。

三、疫病にともに立ち向かう中に東アジア共通の文化遺伝子が現れる

日本が今回の疫病において、中国人の精神を鼓舞しその心霊を慰藉したのは、間違いなく数多い中国援助の行動の中で、深い意味と貴重な価値をもっている。そのなかで、日本の漢語水平考試(HSK)事務局が湖北へ書き送った「山川異域、風月同天(山川は域を異にするも、風月は天を同じくす)」や、日本医薬NPO法人仁心会の「豈曰無衣、与子同裳(豈に衣無しと曰わんや、子と裳を同じくせん)」(『詩経・秦風・無衣』)、舞鶴市役所が大連に物資を支援した際に書いた「青山一道同雲雨、明月何曽是両郷(青山一道、雲雨を同じくす、明月何ぞ曽て是れ両郷ならん)」(王昌齢『送柴侍御』)、あるいは日本道教協会日本道観の「四海皆兄弟、誰為行路人(四海皆な兄弟、誰をか行路の人と為さん)」(『旧題蘇武詩』)「相知無遠近、万里尚為隣(相い知るに遠近無し、万里尚お隣と為す)」(張九齢『送韋城李少府』)など、これらの詩句は、第1期において中国の民衆の目の前を明るくし、たちまち身も心も暖め、また両国人民の友好往来の歴史に尽きることない郷愁を呼び起こした。われわれが真率にこれらの詩句の内容を味わえば、そこに一つの共通の特徴が現れる。それは、人類の生まれながらのつながりを通して、民族を超え、国境を超え、制度を超え、偏見を超え、一言で言えば、一切の人為の垣根を超えてただ残る、「人溺己溺」(人が溺れれば己も溺れるごとく感じる)、「守望協力」(互いに見守り、助け合う)の天道。これら古来の「運命共同体」の思想は、俗世を超越する仏法がかつて東漸した際に、仏学界によって経典的な解釈を与えられた。それが「山川異域、風月同天」だ。この八字は日本の長屋親王が自撰した『繍袈裟衣縁』に由来し、後にその全文が「山川異域、風月同天。寄諸仏子、共結来縁(山川は域を異にするも、風月は天を同じくす。諸を仏子に寄せ、共に来縁を結ばん)」と『全唐詩』に収録されている。鑑真は、この偈頌を聞いて深く心を揺さぶられたからこそ、日本に渡って仏法を弘めることにしたという。

 歴史上、日中両国は同文・同種・同教・同俗である。この「四同」は、かつて日本軍国主義の「大東亜」拡張戦略に悪用されたことがあり、そのため長いあいだ中国人民の警戒するところとなった。しかし、周恩来総理が称した「五十年干戈」はすでに過去のものとなった。とりわけ、第二次世界大戦の後、日中両国の人民がすでに七十五年もの平和を送ってきた今日、大疫病に直面する日本人が、中国人民の感情を高ぶりたぎらせて恩に報いる式の赤心に向きあう態度は、なんといおうと「誠」以外のなにものでもない。日本の細川護煕元首相は感情を込めて武漢人に手紙を書き、彼の祖父の号「晴川」は崔顥の「黄鶴楼」詩に由来すると述べた。株式会社資生堂の魚谷雅彦社長は中国に「資生堂の社名も中国の『易経』の「至哉坤元、万物資生(至れるかな坤元、万物資りて生ず)」から来ている」と言った。彼らが伝えたいのはひょっとすると、なんとしても中国の文化の大恩に報い、中国と患難の交わりを結びたいということかもしれない。

 『毛詩序・大序』に言う。「詩者、志之所之也。在心為志、発言為詩。情動於中而形於言」(詩は、志の之く所なり。心に在りては志と為り、言に発しては詩と為る。情は中に動いて、言に形わる)」と。日中両国の人民がこのように全力を尽くして互いに助け合うのは、どちらも真情を働かせるからである。真情は真心を源とし、真心とは童心にほかならない。「夫童心者、真心也。若以童心為不可、是以真心為不可也。夫童心者、絶仮純真、最初一念之本心也。(夫れ童心とは、真心なり。若し童心を以て不可と為せば、是れ真心を以て不可と為すなり。夫れ童心とは、仮を絶し真に純にして、最初一念の本心なり)」(李贄『童心説』)。筆者がこのような漢文名言に、日中の相互援助の根本的意義を置くのは、その源が「最初一念の本心」、つまり「真心」、すなわち孟子の良知の第一義「惻隠の心」にあるからである。これがあるいは東アジア人のいわゆる「風月」――一つの伝統文明圏の内で永遠に取り外すことのできない共通の文化遺伝子なのかもしれない。「至善者易缺」(完璧すぎるものは欠けやすい)という古訓が後世の人間に警告するのは、このように神聖純潔なものは、詐欺者に悪用されると、永遠に回復できないということである。日中の民心が今日このように燃え上がり歩み寄るのは、なんと容易なことであり、同時にまたなんと脆く弱いことだろうか。自然の敵が人間の恨みを上回り、猜疑が協和を下回り、歴史問題が社会問題に転じ、相互対立が相互承認に位を譲る事実の前に、東アジア各国はふたたび互いに境界を設け、見知らぬ路人どうしとなる理由は、もはやない。「同天」が含む「天は覆い地は載す」という観念と「道は自然に法る」という哲学は、人々に本心に回帰し、「天地の大徳を生と曰う」という生命の原点に復帰することを勧めている。そこに真善美があり、道があり、そして無限がある。

(責任編集:唐永亮)


脚注

#本稿は、『日本学刊』2020年第二期(2020、3.10)に掲載された論文(中国語)を、著者の許諾にもとづき翻訳したものである。
*東北師範大学教授、博士指導教員。
「対日本、這次真的要説声:謝謝!」、央視網、http://news.cctv.com/2020/02/13/ARTIYiMcAK7yKGwI6HfdkTK2200213.shtml(2020-02-13)。
蒋豊『二千年友好、五十年干戈』、百通社、https://baijiahao.baidu.com(2020-02-15)。
毛里和子「重建中日関係」『日本学刊』、2013年第4期。
「日本の支援に恩返し、中国企業が歌舞伎町で日本人にマスク配る」、https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/recordchina/world/recordchina-RC_783045(2020-02-20)。
この典故はいまを去ること1300年前のことであり。「唐大和上東征伝」、塙保己一編『群書類従』(第四輯)第六十九巻、経済雑誌社、1902年、541頁。